伊藤長七(寒水)先生
小諸を去る辞
~「伊藤寒水碑」裏面の碑文~

(旧字体変体仮名は改めてある)

 明治三十三年春吾湖辺の人に別れて落魄浅間山麓に来たりし以来春風秋雨既に一星霜之夢を結びにけり而かも運命の神は刻々吾れを駆り吾れをして長へに此愛着の郷に止まるを得ざらしむ懐かしき哉小諸の土地よ御身を繞れる山と水と御身を飾れる森と花と御身を流るゝ清涼の空気と而して御身が生みたる少年少女と御身のうちに峙てる小諸小学校の建物と而して又特に吾愛愛の児童百三十人を教へたる薄暗き土蔵の教室と是等のものは過去一年之間吾が朝夕の友として我が心身を養ひ吾が堪え難き万斛の情懐を拠らしめたり嗚呼吾遂に小諸をさらざるべからざる歟
  明治三十四年四月 小諸を去る辞の一節を録し先生遺愛の地に建立す

昭和六年四月十九日
建立者 小諸小学校立志同級会一同
代表者 小山邦太郎謹書




伊藤寒水碑の裏面
伊藤寒水碑の裏面


【解説】
 <<矢崎秀彦著「寒水伊藤長七伝」419~424頁掲載「伊藤寒水碑」建立経緯を一部抜粋>>

 寒水頌徳碑の現実の建立は、碑の裏面に刻す昭和六年四月十九日で、この日は長七一周忌の祥月命日に当たり、厳粛な追悼法要の一環として盛大な除幕式が四月二十二日に執行されている。

 ところで、この碑背面の刻文については、「小諸を去る辞」の一節が書かれている、と軽くいわれているが、対比して精査してみると、柳澤教育長の記す「悲壮な決意をした小山先生」への理解があまりにも浅すぎる。この刻文は、寒水先生の名文と称されるものそのままの引写しでは全くない。短文化し内容を濃くする慎重な工夫が施されている。「魔神」の「魔」を除き、「あどけなき少年少女」と一見省略など考えられない表現を省略し、代わりに、「小諸を去る辞」の終わり近くの「愛愛の児童」を以てするなど、原文をコンデンスしたり、リアレンジして、見事流麗な文章に仕上げている。その上、書は巧みに変体仮名や適切な漢字を用いて、天性の能筆に「斎戒沐浴」錬磨の筆跡である。

<注>
「伊藤寒水碑」建立経緯のうち、伊藤長七の教え子・依田巻太(最も暴れん坊で長七を困らせた)の発案から、東郷元帥の揮毫までは、ココをクリックして、ご覧下さい。本サイト「按針亭」の別ページ「小諸善光寺(立志山大雄寺)」の該当箇所に移ります。

【謝辞】
小諸寒水会(立志同級会)の小山登氏から、本Webページ掲載用に「小諸を去る辞」の碑文・学友・草稿各版デジタルファイルを提供いただきました。このうち、碑文は上記のとおり横書とし、学友版と草稿版はpdf化しリンクを貼らせていただきました。小山登氏からの貴重なファイルのご提供は、誠に有難く厚く御礼申し上げます。

【参考】
「伊藤寒水碑」に関する参考サイト(1)
「伊藤寒水碑」に関する参考サイト(2)