伊藤長七(寒水)先生
高島城(諏訪)
~伊藤長七(寒水)先生を慰めた城址~

伊藤長七先生の二男・國男氏は、その著作「和田峠」(昭和59年3月20日刊 鑛石12号)で次のように記している。

~ 略 ~
すでに廃墟となっていた高島城の跡は格好の散策の場となって、旧友との語らいも尽きなかった。
教師としての職場を追われた長七は、浪々の身を四賀村の家に置いて無聊に苦しむ日々を過ごしていたが、読書にも疲れた様な時、高島城址を訪れ、雑草の生い茂る天守閣跡の石垣に登り、湖面に向って大声を挙げて浩然の気を養うこともしばしばであった。
鞭声粛々夜河を渡る--などと高らかに詩を吟じて魂の叫びを空に挙げ、或は藤村の新体詩を朗々と詠じ自らの情熱を発散させていた。
   やさしく白き手をのべて
   林檎をわれにあたへしは
   薄紅の秋の実に
   人こひ初めしはじめなり
高島城址の石垣の方から、風に乗ってとぎれとぎれに流れてくるこの声に、ちょうど家にいた冬は聞き耳を立てていた。
姉様、長七先生が詩を詠じておいでだで、そこまで聞くに行くじゃ」



伊藤長七(寒水)先生
伊藤長七(寒水)先生

高島城は、諏訪湖の波打ち際に築かれた難攻不落の浮城であったが、明治維新の改革で高島藩は消え、明治8年には天守閣も破却された。諏訪氏の在城260余年間、一度も百姓一揆をおこさせるような暴政のでたことのない名城であった。
明治9年本丸跡は高島公園として公開され、護国神社も祭られ、諏訪人の心のよりどころとなってきたことから、昭和45年に天守閣が破却当時の姿を忠実に再現しつつ復元されたという。
従って、伊藤長七先生の存命中は、高島城天守閣は破却されたままであった。

高島城復興案内板

高島城天守閣と復興碑

高島城天守閣から地蔵寺方面遠望

高島城天守閣(冠木橋から)

芭蕉句碑:花に遊ぶ虻那くらひそ友雀

諏訪護国神社

野面積の石垣

亀石(水をかけると願いがかなうといわれる)

藤棚(高島公園)
撮影:2010-5-12