伊藤長七(寒水)先生
和田峠(中山道)
~伊藤長七(寒水)先生が歩いた道を辿る~

伊藤長七先生の二男・國男氏は、その著作「和田峠」(昭和59年3月20日刊 鑛石12号)で次のように記している。

~ 略 ~
中仙道が木曽を過ぎ諏訪から佐久方面に通じている和田峠は、上り三里下り三里と言われていた。中央線の鉄道が開通する前、諏訪地方の人人は、長野市や関東・東京方面に出掛ける時には、歩いてこの峠を越し、信越線の大屋駅に出て汽車に乗った。
~ 略 ~>
上諏訪を通り抜け下諏訪も過ぎて和田峠の頂上に着き、いよいよ諏訪湖も見えなくなる時、長七は生まれ故郷に向い、手を合わせて別れの挨拶をし、伯母の慈愛に感謝し、兄弟又継母の無事をも祈った。
峠を下り丸子辺りの佐久平を過ぎて大屋に出て、ここから信越線の列車に乗って長野に着いたのはもう日の暮れる頃だった。この日から長野師範学校の寄宿舎での生活が始まった。
~ 略 ~

<注>
伊藤長七は、中央線が諏訪・岡谷まで開通する明治38年11月までの間、和田峠を幾度も越えた。小諸に赴任した明治33年(1900年)も、生後6ヶ月の長男(功)と妻(ふゆ)を東京へ引き取る明治37年(1904年)も、和田峠を越えた。



伊藤長七(寒水)先生
伊藤長七(寒水)先生
古峠から諏訪方面を望む
古峠から諏訪方面を望む
古峠(和田側から)古峠(和田側から)
古峠(諏訪側から)
古峠(諏訪側から)
長七先生は、明治27年(1894年)に長野師範入学のとき、上記國男氏記述のとおり、当時の長野県諏訪郡四賀村を早朝発ち、上諏訪、下諏訪、和田峠、和田、長久保、丸子を経て大屋に着き、大屋駅から信越線の汽車に乗って長野に着いたという。 四賀村から大屋までは50キロ近い距離になるのではとも思われ、春の彼岸を過ぎて間もない頃は、まだ日もそれほど長くはなかった筈で、日が暮れる頃には長野に着いたということは、長七先生は驚異的な健脚であったと思われる。

按針亭管理人は、この距離感・身体負荷の一部を体験するため、2010年5月13日に下諏訪駅前から(古)和田峠を越え、和田宿経由で長久保宿までの約30キロを歩いた。しかし、日常の運動不足と70才を超えた年令もあって、休憩と見学時間を入れて12時間を要し、しかも最後の2キロは少し歩いては休むといった状態であった。その折に撮った写真を、往時の人々を偲びつつ掲載する。
古峠の御嶽山坐王大権現碑
古峠の御嶽山坐王大権現碑
和田峠(古峠)から木曽の山々を望む
古峠から木曽の山々を望む
古峠(和田峠)案内板
古峠(和田峠)案内板
なお、(古)和田峠にある文化庁・長野県・和田村(現長和町)による右上の「歴史の道 中仙道 古峠」の案内板では、次のように説明されており、長七先生は、この「古峠」を越えない別ルートで諏訪から大屋に向かったのかも知れない。
「中山道設定以来、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や一般旅人の通行、物資を運搬する牛馬の往き来などで賑わいをみせた峠である。頂上に、遠く御嶽山の遙拝所がある。冬期は寒気も強い上に、降雪量も多く、冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう。明治9年(1876)に、東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通したため、この峠は殆んど通る人はなくなり、古峠の名を残すのみである。」

滝沢忠義著「峠への挽歌 信州の峠をたずねて(平成11年4月24日発行)は、和田峠の明治以降の変遷を解説しており、その概要は次のとおり。
明治10年に、江戸時代から長く使われてきた(古)和田峠経由の道より、100メートル低い新しい道に変わり、この道が原形となって明治27年には、荷馬車が通れるようになった。さらに、昭和8年に大きな工事の末、トンネル(180メートル)が完成し、現在も旧国道のトンネルとして使われているが、、昭和53年に国道142号に新和田トンネル(1.9キロ)が完成し、小県地方と諏訪盆地は短絡した。
下之原一里塚跡(江戸より55里)
下之原一里塚跡(江戸より55里)
慈雲禅寺天桂松
慈雲禅寺天桂松
 諏訪大社(下社春宮)
諏訪大社(下社春宮)
注連掛広場(道路正面右上)
注連掛広場前142号線
注連掛広場
注連掛広場
木落坂上へ(右は芭蕉句碑)
木落坂上へ(右は芭蕉句碑)
御柱木落坂上広場
御柱木落坂上広場
木落坂(坂下に国道142号)
木落坂(坂下に国道142号)
水戸浪人塚(桜樹後方)
水戸浪人塚(桜樹後方)
国道142号から山道の旧道入口
国道142号から山道の旧道入口
西餅屋一里塚(江戸より53里)
西餅屋一里塚跡(江戸より53里)
西餅屋茶屋跡
西餅屋茶屋跡
石小屋跡(避難場所兼荷置場)
石小屋跡(避難場所兼荷置場)
水飲場(峠まで15分)
水飲場(峠まで15分)
 諏訪側から古峠を見上げて
諏訪側から古峠を見上げて
 和田側から古峠を振り返って
和田側から古峠を振り返って
ビーナスラインを数回横断
ビーナスラインを数回横断
ビーナスライン下の中山道と川
ビーナスライン下の中山道と川
東餅屋茶屋
東餅屋茶屋
広原一里塚(江戸より52里)
広原一里塚(江戸より52里)
避難小屋
避難小屋
近藤谷一郎巡査殉職地
近藤谷一郎巡査殉職地
木の芽吹きはじめた旧道
木の芽吹きはじめた旧道
接待(和田峠施行所)跡
接待(和田峠施行所)跡
接待茶屋(復元)
接待茶屋(復元)
三十三体観音
三十三体観音
休憩所
休憩所
男女口道路標識(標高1100m)
男女倉口道路標識(標高1100m)
観音沢分教場跡碑
観音沢分教場跡碑
唐沢一里塚(江戸より51里)
唐沢一里塚(江戸より51里)
ドライブイン和田宿・バス停扉峠口
ドライブイン和田宿バス停扉峠口
一里塚(江戸より50里)跡、鍛冶足信号際
一里塚跡(江戸より50里)鍛冶足信号際
和田宿高札場跡
和田宿高札場跡
和田宿本陣
和田宿本陣
かわちや
かわちや
和田小学校
和田小学校
芹沢一里塚跡(江戸より49里)
芹沢一里塚跡(江戸より49里)
三千僧接待碑
三千僧接待碑
水明の里碑(142号・152号合流点)
水明の里碑(142号・152号合流点)
四泊一里塚跡(江戸より48里)
四泊一里塚跡(江戸より48里)
これより 長久保宿
これより 長久保宿
長久保宿 旧本陣(石合家)
長久保宿 旧本陣(石合家)
撮影:2010-5-13