伊藤長七(寒水)先生
赤壁の家と法禅寺
~夏期転地修養隊宿舎~

旧制府立五中(東京府立第五中学校)は、大正8年(1919)4月9日に始業式を行い、最初の生徒(第1回生)を迎え入れた。

同年夏には2週間余り、東京では味わうことができない農作業などの体験を、初代校長伊藤長七の出身地・信州(長野県)を舞台に、夏期転地修養隊として積んだ。

農作業は、主に北佐久郡志賀村(当時)で行い、赤壁の家(神津猛志賀村長宅)と法禅寺を寝食の場所とした。

転地修養隊の成功は、多くの支援者に支えられてのものであった。

転地修養隊は大正12年まで5年間続けて催された。
しかし、大正12年9月1日の関東大震災以降は行われなかった。


第2回転地修養隊(大正9年)宿舎「法禅寺」での清掃作業
第2回転地修養隊(大正9年)
宿舎「法禅寺」での清掃作業


赤壁家の神津猛は、島崎藤村の「破戒」出版やフランス留学を金銭的に支援したことで知られ、また戦中は小諸に疎開した高浜虚子を支えたともいわれる。

紫友同窓会でも活躍した神津康雄(旧制五中第13回卒:1919~2013)は、神津猛の六男、奇しくも府立五中が第1回生を迎えた1919年の2月27日生まれ、伊藤長七に抱っこされたことがあり、島崎藤村が小諸を去るとき残していった小机で勉強したとのこと。

右掲載の大澤洋三著「赤壁の家」には、「藤村をめぐる佐久の豪農神津猛の生涯」との副題がついいる。


第1回夏期転地修養隊の上野駅出発
第1回夏期転地修養隊の上野駅出発
立っているのは伊藤長七校長


<参考サイト>

メロウ伝承館
私の生家「赤壁の家」その1


三田評論「慶應義塾史跡めぐり
神津家の人々」


<参考書籍>

矢﨑秀彦著「寒水伊藤長七伝」

紫友同窓会刊「立志・開拓・創作
―五中・小石川高の七十年―」

大澤洋三著「赤壁の家」
1990年ほおずき書籍増補改訂版
大澤洋三著「赤壁の家」増補改訂版
夏期転地修養隊が、佐久地区での農業体験で、食事を供された「赤壁の家(神津家)」
按針亭管理人が訪問した2016年3月10日は、前日からの降雪で、赤壁が映えていた
屋敷前の道から門までの石畳は、往時、年貢米を運んだ荷車の轍跡が見られる(右下写真)
赤壁家出身の神津康雄先輩は、赤壁の家の裏山(正住寺山)で島崎藤村、木村熊二らが松茸狩りをしたと記している
夏期転地修養隊が、佐久地区での農業体験などの宿舎とした「法禅寺(神津家菩提寺)」

参道入口

山門

本堂
「赤壁の家(神津家)」に向って右手、法禅寺参道との間にある「黒壁の家(神津家)」
カーラー写真なのに、雪も加わってモノクロ写真のように見える
志賀小学校跡は、佐久市教育委員会の文化財事務所と文化振興課となっており、按針亭管理人は予約なしで訪ねたが、有難いことに、「志賀城の歴史」などの説明をして下さった
中世からの歴史が詰まっているという「志賀城跡」などは、機会をみて天候の良いときに訪ねてみたい
神津包重翁は、島崎藤村を支援したことでも知られる赤壁家第十二代神津猛の祖父に当たる

志賀小学校跡碑

志賀学校百周年記念碑

神津包重翁碑
岩村田/北中込から佐久市志賀に県道44号を進むと、右手にガソリンスタンド、JA佐久浅間東支所、左手に佐久市東会館があって、ほんの少し先、左手の大岩(離山)下に、社(箱崎諏訪神社)、神津藤平翁之像、船着岩が並んでいる
赤壁家に繋がる神津藤平は、慶應義塾卒業後、東京電灯を経て郷土の開発発展に尽力、長野電鉄に発展する河東鉄道を開き、志賀高原の命名者としても知られる
昔々、「五十貫」といわれる地域一帯に湖があったが、年々干拓が進んで農地となり、「船着岩」が残ったといわれる(佐久市東会館の並びバス停左に土地改良記念碑が建っている)

箱崎諏訪神社

神津藤平翁之像

船着岩
大閼伽流山(だいあかるさん)小倉観音堂は、赤壁の家(神津家)と法禅寺の裏山(正住寺山)の更に裏(北側)にある大閼伽流山中腹にある
志賀小学校跡近くにある道祖神の前で会った地元の方が、降雪のため観音堂まで行くのは無理だろうと語っていたが、少々無理して観音堂まで登った
志賀小学校跡右脇の道を進み、右手溜池を過ぎて右に折れると、左に左下写真の案内標柱が現れる

小倉観音堂参道入口に建つ標柱

小倉観音堂

小倉観音堂左手崖下の石仏群
志賀までの適当な路線バスがないので歩くこととし、岩村田駅よりも北中込駅からの方が距離が短かく迷うことがないと思い、北中込駅で下車し歩き出した
しかし、志賀を訪ねた2016年3月10日(木)は、前日からの降雪で往路は歩き難くかった

北中込駅ホームを降り列車を見送る

県道103号多目的広場付近

県道44号新子田橋から志賀を望む