伊藤長七(寒水)先生
琵琶歌「嗚呼伊藤長七先生」
()()(うた)()()()(とう)(てう)(しち)(せん)(せい)
木村 岳風
(昭和6年作)
仮名遣い等原文のまま
こぞの(はる)、はかなく()りし櫻花(さくらばな)いま爛漫(らんまん)()きつれど、その春風(はるかぜ)にさそはれて、()まかり(たま)ひし()(きみ)の、ふたゝび(かへ)らぬ(さび)しさよ。

開拓(かいたく)創作(そうさく)(こえ)(たか)く、紫友(しゆう)(その)(ちゝ)となり、校風(こうふう)樹立(じゅりつ)して、名校長(めいこうてう)(うた)はれし、伊藤(いとう)(てう)先生(せんせい)追善(ついぜん)せんと四ツの()に、調(しら)(あは)せて()りし()を、しのぶも感慨(かんがい)無量(むれう)なり。

おもへば()りし(ふゆ)(あさ)鶴亀(つるかめ)体操(たいそう)()れやかに、校舎(こうしゃ)にひゞく號令(ごうれい)や、フットボールに校庭(こうてい)の、(こほ)れる(つち)蹴散(けち)らし(たま)ひしも、登山(とざん)キャンプの(なつ)(ゆう)(ゑみ)をたゝへし温顔(おんがん)に、得意(とくい)詩吟(しぎん)(たか)らかに。

      休道他鄕多苦辛    同胞有友自相親
      柴扉曉出霜如雪    君汲川流我拾薪
〔注〕
通釈などは次のページを参照

「桂林荘雑詠示諸生」ページ


(ぎん)(たま)ひて(おし)()(まな)びの(みち)()かれたる、その面影(おもかげ)(いま)もなほ、まのあたり()るごとくなり、靜思(せいし)(こえ)もおごそかに、あふるゝ(なみだ)せきあへず、(おとこ)になれの()おしへに、(おも)はず(あたま)(さが)りしも、昨日(きのふ)とばかり(おも)ふなり。

(みなみ)(はる)けきアマゾニヤ、雲煙(うんえん)かすむたゞなかに、(あま)かけり()大鵬(たいほう)の、いまは(いづ)()にいこふらん、(あゝ)(てん)なるか(めい)なるか、(しん)()(ほん)建設(けんせつ)に、使()(めい)(おも)育英(いくえい)の、(たか)きのぞみを(おも)ひては。

(やまひ)(とこ)()(わす)(まな)びの(その)()(おく)り、みちびき(たま)へる數々(かずかず)も、いまはカタミとなりにける、げにもはかなき(うき)()かな。

        みをしへの(よみが)へる(こころ)いだきつゝ
                          (おほ)いなる()(ちから)をぞ(おも)

(のぞ)()()ゆる(わが)(とも)よ、(まな)びの(みち)にいそしみて、わが校風(こうふう)宣揚(せんよう)し、(おん)()(れい)をなぐさめん。

(かみ)()りましゝ()(きみ)の、()(たま)はとはに(とゞ)まりて、五(ちう)(えい)をまもるべし、五(ちう)(えい)をまもるらん。

【出典・解説】  木村岳風詩歌集  公益社団法人日本詩吟学院(元 社団法人日本詩吟学院岳風会)編集発行第二刷
昭和6年4月、先生は錦を着て、故国諏訪に帰郷し劇場都座に於て、琵琶と詩吟の夕を開催(主催信陽新聞社)。琵琶「嗚呼伊藤長七先生」、詩吟「国体篇」その他を熱吟、満員の市民を感動させた。その折の琵琶歌の全文がこれである。(諏訪市宮坂博邦氏処にて発見されたプログラムによる)
伊藤長七先生は諏訪市普門寺の出身、東京府立第五中学校の初代校長として令名あり、詩吟を愛好し、木村先生を朗吟家として天下に送り出された恩人である。没後第五中学校の追悼会の開かれた時、木村先生はこの琵琶歌を演奏し、恩誼を想起して涙潸然、半ばにして座を立ち、後がつづかなかったのであった。(竹ノ内岳宗氏談『岳風先生詩歌集』)

伊藤長七先生直系遺族に伝わる「木村岳風先生の直筆と思われる本琵琶歌譜面」が存在する。その琵琶歌譜面の写真を本Webページに載せたいと願っている。