伊藤長七 (寒水)
伊藤長七 (寒水)
矢﨑秀彦著『寒水伊藤長七伝』 目次
新設:2019-03-15
更新:2022-10-30
はじめに

矢﨑秀彦著『寒水伊藤長七伝』の目次を紹介します。

ただし 年月日などの漢数字をアラビア数字に置き換え 明らかな間違いは訂正し 訂正箇所の文字色を赤色とした。
目次1 1877-1918(序・誕生~東京高師)

序        元諏訪教育会会長
         諏訪市文化財専門審議委員 茅野慶次

序 感動の力作  元中央公論編集長・評論家 粕谷一希

はじめに
近所の先生
伊藤長七先生の略歴

第1部 東京高等師範学校附属中学校教諭時代まで
      ――千万人と雖も吾行かん――

1.長野尋常師範学校入学まで
  (明治10年4月~27年3月)
生い立ち
「学修」郡立諏訪高等小学校4年級生徒14歳の作文
育英会で学ぶ
授業生3ヵ年

2.長野尋常師範学校時代
  (明治27年4月~31年3月)
長師時代を語る資料
夏休み宿題研究
仮入学、全寮制、三気質、軍隊式教育
教育革新の発動、新旧の相剋
教生長七の体操授業(花星吉次郎の手記)
教育革新運動の学窓外への進出
赤彦の登山追想短歌
北澤種一君の金襴簿に書き与えた文

3.新任地諏訪での諸活動
  (明治31年4月~33年3月)
諏訪高等小学校での活躍
鳥打帽子、白い短い袴、ステッキの新任先生と学校の変貌
長野県教育大会
長七らの教育とそれへの反発
諏訪全郡連合運動会 野田っ原に企画
子守教育を始める
新旧思想の衝突
塩原ふゆと長七
正木長野師範学校長、長七の高師推薦を控える
岩波茂雄を励ます
下諏訪高等小学校へ転任、半年で岡谷へ
「公売処分」、小諸高等小学校に「拾われる」

4.小諸の1年 (明治33年4月~34年4月)
諏訪への惜別と小諸への抱負
壮士出陣
知己の一言
小諸の四季と児童との生活
小諸の春
夏ともなれば
秋風一度立ち
千曲の水音寒き冬枯れ
思い出懐かしい場所々々、人びと
病巣漫筆
島崎藤村との交際
予期せぬ出会い
土屋銀之助のモデル長七
長七と藤村と神津猛との関係
正木正太郎師範学校長弁護のエピソード
小諸を去る辞の結び 東京高等師範学校入学
「伊藤先生の思い出」(立志・開拓・創作) 教え子小山広
「信州における寒水の教育活動の意義」太田水穂

右上へ続く


左下から続く

5.東京高等師範学校学生時代
  (明治34年4月~同39年3月研究家卒)
東京高等師範学校の学則
長七の金子直一への手紙
高等師範学校卒業生諸君を送る
岩波茂雄家の長七への学資援助は疑問
岩波茂雄の煩悶と長七の激励
「東に高き八ヶ岳」作詞――諏訪中学校校歌――

6.東京高等師範学校付属中学校教諭時代
  (明治39年4月~大正8年1月)
塩原ふゆと結婚、千駄ヶ谷村に新居
帯川豊太郎の駿河台高田病院入院
道志社趣旨起草
尚志社と道志社
技芸塾(若葉会)を経営した藤森ます
高師付属中柔道部学習院を破る
「現代教育観」考
目次
軍事中心主義の弊
軍隊と国民教育
長七の海外殖民論
アメリカに於ける日本の植民
日本と米国とにて教育せられたる児童観念界の対比
支那学生教育の失敗
朝鮮半島の教育行政
ヘボン先生について
生徒の台湾総督府高等商業、高等農林学校入学を祝する
伊藤の海外殖民への抱負
太田水穂「弔辞」で明かす寒水の素志
「信濃教育」への投稿の諸論文
信星会の後進誘掖に就きて(明治42第289号)
新人道主義と今後の教育(大正2第321号)
国民道徳の教養について(大正4第345号)
信濃大学創設の国論を樹立すべし(大正4第394)
教え子海軍中尉小山竹治郎戦死の頌徳碑文撰書
(大正4年10月)
幸福な新春 (大正4年)
通俗大学創設、後藤新平と共に
木崎夏期大学
軽井沢夏期大学


矢﨑秀彦著『寒水伊藤長七伝』表紙


左下の「目次2」に続く


目次2 1919-1930(五中・諸資料)

第2部 東京府立第五中学校長時代
     ――立志・開拓・創作――

1.新設東京府立第五中学校校長に抜擢される
    ――その抱負――
東京朝日新聞記事(大正7年12月16日)
多彩なアイディア行事続出の開校
入学式
よくぞ集めた一流の緒先生たち
鶴ヶ岡八幡宮前での紫友会発会式
背広にネクタイの標準服、小紳士の学園
財団法人紫友会結成、会誌「開拓」発行
開拓の精神について
東京府立第五中学校校歌
五中の鯉幟大空を自由に舞う
井上長官の急逝を悼む
夏期転地修養隊
同隊参加生徒の記録
東京朝日新聞記事
学校日誌抄
創作展覧会
紫友測候所開設(大正10年1月)
視聴覚教育のはしり
運動場1338坪(紫友会寄贈、大正10年6月)
天体観測始まる(大正10年1月)
☆満州朝鮮旅行のエピソード
五中体育 サッカー 房州保田に海水浴場
校長発案の熊鶴亀犬猿猫体操

2.米欧教育視察出張
  (大正10年11月11日~同11年12月16日)  
東へ東へ
少年少女の手紙1万数千通を携えて
盛大な送別会
外遊日記の一部
(詩)ハワイを後に 太洋丸上

3.アメリカ合衆国  
サンフランシスコ上陸からの通信文
ウールワースビル58階の頂きでの感慨
(詩)ヴァージニアの野に立ちて
プリマスからの手紙(冊子)
ワシントン第6回公開会議傍聴
W.G.ハーディング米国第29代大統領に単独会見
少年少女の手紙の反応
(詩)アメリカ大陸を後ろに

4.ヨーロッパ大陸へ  
ロンドンへ向かう
フランス
小山敬三画伯とパリジェンヌとの結婚に立会う
ドイツ
大戦後の疲弊に立ち向かうドイツの民衆
斎藤茂吉ウィーンの名門女学校に案内
イタリー
スイス
帰国途上の短歌など

5.大正12年  
帰国・少国民外交の卵
(東京朝日新聞夕刊大正2年1月、7回連載)
五中定員1000名となる
関東大震災
開拓館落成

6.大正13年  
郷里の普門寺青年会歌作詞
物故紫友会員追悼

7.大正14年  
川井清一郎訓導事件と諸家の意見
配属将校
「男性美」
木村岳風を世に出す

右上へ続く


左下から続く

8.大正15年  
「新しい講話の仕方と実例」著作
久保田俊彦(島木赤彦)死す
三沢精英の赤彦追想
霧ヶ峰山論解決に尽力
藤森本次の諏訪湖での溺死を弔う
「オナー・システム」
「自治之国東京第五中」
台湾・南支那方面公務視察

9.昭和2年  
「創作の日本」
第2次外遊 国際教育会議出席、その後ブラジル視察
会議後の長七の動静、南米視察3ヶ月余
国際教育会議とは
飯田太金次への手紙(1)
長七のブラジル行きの真相
ブラジルでの足取り
飯田太金次への手紙(2)
貫通直後のシベリア鉄道で帰る 神戸着12月24日
「日本人として世界に生きる道」講演
(翌昭和3年4月3日)

10.昭和3年
教え子小山邦太郎の衆議院議員立候補の応援のエピソード
格言警句集発刊
文部省の中等教育改善案に反対する
昭和天皇即位 奉祝歌

11.昭和4年
元日朝 宮城前広場で祝賀中発病、自宅療養
母校長野師範で講演、演題「孤独の心を抱いて」
諏訪高等女学校同窓会への手紙
全人的教養とは
妻ふゆ急死(6月3日午後4時)
牛山充へ帝大物療内科からの礼状
「夏休みを迎えて」(7月19日付24頁冊子)配布
房州保田の海水浴宿舎完成
紫友会から紫友同窓会独立
帝大真鍋物療内科へ入院の事情
木梨信彦の見舞
転地療養のため湘南平塚杏雲堂病院へ転院
山からの文化
「宮坂喜十先生と河西清水先生を思う」
 (南信日日新聞連載)
「すこやかなる心身へ」(28頁冊子)配布

12.昭和5年
伊藤長七逝去、学校葬執行
数多い弔辞の中より

13.追慕、顕彰の諸行事
伊藤校長胸像建立(碑文橘純一、制作本山白雲)
「伊藤寒水碑 伯爵東郷平八郎書」碑建立
   小諸小学校立志同会一同
太田水穂の伊藤長七挽歌
「嗚呼伊藤長七先生」木村岳風追悼琵琶歌作詩演奏
帝国教育会創立50年記念慰霊物故教育功労者表彰を受ける
長善館移転功労者表彰受賞
郷友牛山充の長七追想
寒水伊藤長七先生頌徳公園造営
公園への道順

14.寒水書跡 こもる心情

あとがき
伊藤家系図
伊藤長七(寒水)年表
追慕顕彰の諸行事
資料目録