新設:2019-03-12
更新:2022-10-30
はじめに
昭和40年(1965)11月8日に除幕された 諏訪湖を見下す伊藤長七先生ゆかりの「教育理想の発祥地」「伊藤長七先生頌徳公園」内に建つ「伊藤長七先生記念碑」の
除幕式に参列した人々に配布されたもののうちから 諏訪市長・岩本節治の挨拶文と絵葉書を紹介する
伊藤長七先生記念碑建設委員会の委員長であった諏訪市長の挨拶文は 仮名遣い 句読点は 原文のままとし 読みやすくするため 適宜 空白行を入れた
絵葉書は 諏訪市の勝山写真館が納めたもので「伊藤長七先生頌徳碑」と題した包みに4枚収められていたもの
絵葉書と現況を比べると 「伊藤長七先生頌徳公園碑」の設置位置が 建立後変更され 樹木が生い茂って 50有余年の歳月を感じさせる
ここで使用した 挨拶文と絵葉書は 何れも 1996年11月に紫友同窓会から譲り受けたもので 按針亭管理人が伊藤長七先生頌徳公園と 後に『寒水伊藤長七伝』の著者となった矢﨑秀彦氏を訪ねる直前に
紫友同窓会事務局に複数あったものの1つ
伊藤長七先生記念碑除幕
伊藤先生記念碑 除幕式を迎えて
伊藤長七(寒水)先生は明治十年四月十三日 諏訪郡四賀村普門寺に伊藤孫右衛門氏の三男として生れた。三才にして慈母を失い、その後は慈愛深き祖母の手により育てられた。
幼にして聡明、父について読書を学び、小学校へは学令前六才にて、特に入学をゆるされた。諏訪中学の前身である育英会に入学後、長野師範学校に学び、卒業して明治三十一年より、上諏訪(高島小) 下諏訪、岡谷、小諸等の尋常高等小学校に教鞭をとったが、教え子と共に学び、喜び、ある時は泣き、文字通り寝食を共にして、その訓育に若い情熱を傾けて、当時とかく重圧と規律の下に、徒に従順のみを強いられていた。日本の教育に、新風を吹き込んで、高い理想の下に、活動主義の教育を行った。
そして、「世を挙げて吾をそしる。吾関せず、世を挙げて吾を褒す 吾関せず……校風を造る人たれ 校風に造らるる人たるなかれ、時勢を作る人たれ、時勢に作らるる人たる勿れ」………と絶叫して、教育革新の先頭に立った。
しかし、この様な教育主義が当時の厳粛な教育者には容れられず、前記の如く転々として学校を移るの止むなきに至った。ついで、明治三十四年、二十四才の時、東京高等師範学校英語科に入学、卒業後は同校附属中学校に職を奉じた。
明治四十五年には「現代教育観」と題する論文を発表、当時の沈滞せる教育を痛罵して、新教育の理想を論じて東都教育会に話題を投じたこともあった。
大正六年には長野県木崎夏季大学を、大正七年には、軽井沢夏季大学の創立に力を尽くすなど、社会教育の分野でも活躍している。
大正八年東京府立第五中学校(現小石川高校)の創立に当り、初代校長として四十三才の先生が抜擢せらるるや、「創作 開拓」をモツトウとして子弟の教育に熱血を傾注し、形式化した学問の詰込主義を排斥し、全人間的教育を提唱、眼を世界に向けて、国際的教育に全力を尽くした。先生自らも二度の海外旅行により、国際親善に又国際教育会議に出席、広く世界に開拓の目を向けて行った。
先生の詩に
起てよ人々これの世に よし海原は隔つとも
山と水との化をうけて 青雲遠き南米の
光あまねき天ヶ下 そこにも建つる日本村
ひろき世界に働かん すすめ すすめ 開拓者
の一節を見ても、その気宇がしのばれるであろう。
先生こそは、その教育思想のすばらしさは云うに及ばず、先生の人柄、先生の周囲の人々に与えた人格的感化は、吾吾の忘れ得ないものがある。
先生は高らかに詩を吟じ、剣を執って舞い、健筆忽ちに熱血ほとばしるの文章となり、詩となり、歌となる。一生を貫きしものは熱血であり、活動であった。
天仮すに才月を以てせず、其の理想究竟の域に達せずして長逝せられたことは、惜しみてもなお余りあることである。先生は昭和五年四月十九日に永眠された。五十四才であった。
さきに、小諸小学校の立志同級会による 東郷平八郎筆伊藤寒水碑の建立があったが、この度び、先生の「教育理想の発祥地」とも云うべき、この地に郷土の人々や教え子達、府立五中の同窓会等関係者の人々が相計り記念碑を建て教育革新の陣頭に斃れた先生の理想を永く伝えようとするものである。
昭和四十年十一月八日
伊藤長七先生記念碑建設委員会
委員長 諏訪市長 岩本節治