伊藤長七 (寒水)
伊藤長七 (寒水)
小諸善光寺・立志同級会
新設:2010-06-12
更新:2022-10-30
はじめに ~伊藤寒水碑と小諸善光寺~
伊藤寒水碑(東郷平八郎揮毫)
伊藤寒水碑(東郷平八郎揮毫)



小諸善光寺(立志山大雄寺)参道
小諸善光寺参道



小諸善光寺(立志山大雄寺)参道入口
小諸善光寺参道入口
小諸善光寺は 坂の上小学校の横を登った 左側にある
伊藤長七先生が野外授業を行った 往時の囁(ささやき)
小諸市東雲3760(下方に掲載の案内図を参照下さい)
小諸善光寺の本尊は 一光三尊佛(善光寺仏)の「銅像阿弥陀如来及両脇侍立像(どうぞうあみだにょらいおよびりょうきょうじりゅうぞう)で 昭和45年3月31日に小諸市宝文化財に指定され さらに 昭和62年8月11日に長野県宝文化財に指定されている
なお 小諸善光寺(立志山大雄寺)の由来は 後段の記載を参照されたい
伊藤寒水碑(東郷平八郎揮毫)を望む
伊藤寒水碑(東郷平八郎揮毫)

伊藤寒水碑は 伊藤長七の一周忌祥月命日(昭和6年4月19日)を日付として小諸小学校立志同級会一同により 長七が野外教授を行ったといわれる縁(ゆかり)の地・小諸善光寺に建立された
この顕彰碑は 長七存命中に教え子の依田巻太(最も暴れん坊で長七を困らせた)の発案により計画され 長七の親友・太田水穂ら多くの人の力添えを得て完成したという
碑背面刻文は 長七の「小諸を去る辞」の一節を教え子・小山邦太郎が見事にまとめあげたもの
「伊藤寒水碑」建立経緯詳細
下に掲載の矢崎秀彦著『寒水伊藤長七伝』
P421~423から転載させていただく
伊藤寒水書扁額(小諸善光寺蔵)

太田水穂書扁額(小諸善光寺蔵)
伊藤寒水をしのぶ 水穂
高はらをわたらふ月のまどかにし
いやさけくしきみはありけり

伊藤長七の遺族から小諸善光寺に
寄贈の伊藤寒水碑揮毫原本掛軸を
鑑賞する寒水会メンバー
(小諸善光寺本堂)
伊藤長七が1年間下宿した(元)西岡信義邸跡の(現)民宿懐古苑辺り
長七先生が下宿した西岡信義邸跡
現「民宿懐古苑」辺り
小諸市古城3-1
(元)馬場町丁591
小諸駅の小諸懐古園側で
軽井沢寄線路に近いところ


伊藤長七(寒水)先生
伊藤長七(寒水)先生
伊藤家提供
「伊藤寒水碑」建立経緯詳細

~矢崎秀彦著「寒水伊藤長七伝」P421~423から転載~

この碑建立については、次の特筆すべき文書がある。その全文を掲げる。

寒水先生の碑――小諸教育・梅花教育の表徴―― 小諸市教育長 柳沢武信

小山(邦太郎)先生ほど、教育の振興を常に考えられた方はいない。また教師を大切にされた方はいない。

わたしがこの職についた頃から校長会や新任教職員歓迎会で「伊藤寒水の碑」について、話をすることを仄聞された先生は、ある日突然わたしの部屋を訪ねられ「教育長さん、あなたがしばしば伊藤寒水先生の話をされると聞いて、今日はお礼をいいに来たのです」とあの人なつっこい顔をほころばせて深く頭を下げられ、大きな掌で力強く握手された。

寒水伊藤長七先生は明治三十三年春【矢崎注1】、硬骨ひとに容れられず、郷里諏訪を去って、落魄浅間山麓小諸尋常高等小学校に赴任され、東京高等師範学校入学までたった一年間の在職であったが、偉大な感化を与えてこの地を去られた。小山先生から寒水先生の指導ぶりやそのご性格はしばしばお聞きしましたが、この日先生が「教育長さん、これだけは記録して後世に残しておいてくださいよ」といわれたことのみを以下誌すことにする。

囁(地名ささやき)の小諸善光寺境内にある伊藤寒水の碑が建立される原動力となったのは、市内大手町あげはや主人依田巻太である。
依田君は僕等同級生中、最も暴れん坊でよく先生を困らせた。伊藤先生はこの依田君を訓戒する時は「わしが至らないから、君にこんなことをさせてしまった。悪いのはわしだ」といわれて声涙共に下る説諭をされた。
腕白者の依田君は、先生の恩情溢れることばをきいて共に涙し「へえ(今後)、決してやりません」と誓ったのであるが、日が経つにつれて、いたずら根性がまたむくむくと頭をもたげて、乱暴をしてしまった。
すると伊藤先生は「依田、出て来い」と教卓のそばへ呼びつけて「君はこの前、わしの前で誓ったではないか。男一匹誓ったことは死んでも守らにゃならん。今日は君の弱い意思を叩きのめしてやる。だが君のその意思を直してやれなかったのはわしに力がないからだ」というなり、自分の頭をげんこつで強く叩いて、次に涙と共に依田君にビンタを食らわした。 依田君はこれ以後みちがえるような行動の持ち主となってクラス内、正義派のリーダー的役割を果たすようになった。
揚羽屋(あげはや)外観、往時、島崎藤村は揚羽屋の看板を書いている
揚羽屋(あげはや)外観
撮影:2003-07-25

島崎藤村は「千曲川のスケッチ」
第8章に「一ぜんめし」の節を設け
「揚羽屋」を描写している
卒業後依田君は、その根性を家業や街の発展の為に駆使して町民の信頼を得ていたが、ある時立志同級会(伊藤先生の命名)会長であった小山先生のところへ来て「俺の生涯の基をつくってくれたのは伊藤先生だ。あんな先生はめったにいない。小山君、君が同級生に呼びかけて、先生の頌徳碑を造ろうじゃねえか。雑役は一切俺が引き受ける」と真剣に抱負をぶちあけた。この熱意に押された小山先生は「至らぬ会長の僕には重荷だが、よくわかった。やってみよう」と引き受け、二人は固く手を握り合った。【矢崎注2】

所用で上京する機会の多かった小山先生は、当時東京府立五中の校長として令名を馳せていた伊藤先生を訪ねて、まず許諾を得ようとした。謙虚な伊藤先生は固く辞退されたが、小山先生や立志同級会の熱意に負けて、「では、一切お委せしよう。けれど目立たない簡素なものにしてくれ」とのご返事を戴いた。

そこで思い悩んだ小山先生は歌人太田水穂先生が伊藤先生と昵懇であることを知って、水穂先生を訪ね、一切を打ち明けて相談した。水穂先生は「それはよい企てだ。寒水君の謙虚な気持ちはわかるが、やるなら大きな構想でやれ。どうか、表の題字は東郷元帥にお願いし、裏面は伊藤君の名文『小諸を去る辞』を君達教え子の誰かが書いたら」との示唆を受けた。

それで、当たって砕けろというわけで東郷元帥邸を訪ねて題字揮毫を懇願した。寡黙な元帥は静かに聞いておられたが、最後に「よくわかりました、当代随一の教育者伊藤長七君を慕う諸君の情熱に東郷もうたれました。わしでよかったら喜んで書きましょう」と快諾された。この時の嬉しさを小山先生は「邸を辞した僕等は鬼の首でもとったような思いで抱き合って泣いた」と述懐されている。

さて、水穂先生に、裏面は「『寒水小諸を去る辞』を君等教え子で書け」と指導されたが、同級会で誰に書いてもらおうかと相談したところ、みな異口同音に「会長の君が最適だ」といわれ、いくら辞退しても聞き入れてくれない。悲壮な決心をした小山先生は「よしやってみよう」と答えたものの自信がなかった。この時の様子を小山先生は「斎戒沐浴して何枚書いたろう。その中からさらに何枚かを選んで並べ掲げ、その中から一番よかろうときめたものを石屋に持って行った」と思い出されている。

かくして小諸教育史の上で特筆される伊藤寒水の碑は建立された。
と、このようである。

【矢崎注1】
伊藤長七明治十年(1877)生まれ、昭和五年歿。明治三十三年には二十四歳。小山邦太郎明治二十二年生まれ、昭和五十六年歿。明治三十三年には十二歳。

【矢崎注2】
立志同級会は、長七の病を知り、頌徳碑の生前建立を願った。しかし、東郷元帥の揮毫を頂き建碑の準備も整ったのに、残念ながら師の病状は悪化し、平癒を祈る間に長逝となった、とこのような推測から、元帥の揮毫等は、長七が長野師範で講演されたなどの昭和四年の初めごろではあるまいか。

<注>
「小諸を去る辞」は ココをクリックして ご覧下さい 別ページ「小諸を去る辞」に移ります
小諸善光寺由来

~小諸善光寺の案内書から転載~

伊豆の豪族・河津祐泰が伊豆の狩場で一族の工藤祐経に殺された。18年後の建久4年(1193)、源頼朝が富士の巻き狩り陣中、河津祐泰の子で兄・曽我十朗祐成、弟・五朗時致の兄弟が、父の仇・工藤祐経を討ち、怨を晴らしたが、源頼朝に即刻切腹を命じられた。十朗の妻・虎御前と五朗の愛婦は共に剃髪し、その菩提の為、信濃善光寺如来に百度参り参詣を志したが、相模よりは遠く女子の足では大変であるた為、佐久郡大井の郷に留まり、小庵を造り此処より往還して志を成就した。

その後、その地に善光寺の建立を志し、寛元2年(1244)7月10日、阿弥陀如来本尊を鋳造、同8月、観世音菩薩、勢至菩薩を鋳造。寛元4年(1246)入仏供養の大法要を行い、佐久善光寺と命名した。時の佐久地方の豪族・大井氏、伴野氏、依田氏が大檀那となり寺領千石の寄進もあり、伽藍十二坊に及び殷賑を極めた。弘安2年(1279)8月、大井光長公より大梵鐘の寄進があり、仏法繁昌の霊場となった。(曾我兄弟の仇討ち、虎御前の信濃善光寺百度参り、一光三尊仏の鋳造、佐久善光寺の命名、大井光長公の寄進等、大梵鐘の裏側に銘記されている)

三百余年の後、天文年間(1532~1555)、武田氏、村上氏の争いの時、兵火により十二坊を焼失。如来尊像と諸像は地元の者により後山に埋められ無事であったが、此の際大梵鐘は武田氏により掠奪され、現在松原湖畔、諏訪神社の境内に納められている。(高瀬落合より南佐久郡海尻まで引き摺られ、上部に20糎程の摺穴が空いている。昭和初期まで、海尻の野原に転がしたまま放置されていた為、「野ざらしの鐘」と云われている)

その後、武田信玄公が佐久善光寺を再建されたが過去の盛観はなく、徳川時代になり再興を図り、機に応じ仏縁を求め、江戸で出開帳供養を行い、数万の信徒を得ていた。(佐久善光寺の名風に高かりしは、下谷谷中玉泉寺の記録に銘記されている)

慶応2年(1867)12月、再度、佐久善光寺は焼失。以来久しく跡を絶っていたが、大正7年、大雄寺開山大圓道雄和尚が東京に御本尊がおわすことを知り、大正10年11月15日、無事帰山した。
昭和4年3月25日、小諸の仮奉安堂に移る。
昭和5年5月、初開帳供養をし、壇信徒の信仰により小諸善光寺の宿願が成り、同年10月仮本堂の上棟式を行い、同年12月20日落慶法要を行い、今日に至っている。

小諸懐古園)

伊藤長七は 小諸在住1年の間に 小諸義塾の先生であった島崎藤村と園内を逍遙したことがあるという
撮影:2010-05-14
新緑に包まれた「藤村記念館」遠望
藤村記念館遠望
藤村記念館前にある「島崎藤村胸像」
藤村胸像(藤村記念館前)
藤村詩碑(小諸なる古城のほとり)
藤村詩碑(小諸なる古城のほとり)
藤村記念館脇の八重桜
藤村記念館脇の八重桜
苔むす石垣(天守台の一部)
苔むす石垣(天守台の一部)
千曲川上流方面遠望(水の手展望台)
千曲川遠望(水の手展望台)