新設:2010-06-12
更新:2022-10-30
はじめに
~伊藤長七(寒水)先生が歩いた道を辿る~
伊藤長七先生の二男・國男氏は その著作「和田峠」(昭和59年3月20日刊 鑛石12号)で次のように記している
~ 略 ~
中仙道が木曽を過ぎ諏訪から佐久方面に通じている和田峠は、上り三里下り三里と言われていた。中央線の鉄道が開通する前、諏訪地方の人人は、長野市や関東・東京方面に出掛ける時には、歩いてこの峠を越し、信越線の大屋駅に出て汽車に乗った。
~ 略 ~>
上諏訪を通り抜け下諏訪も過ぎて和田峠の頂上に着き、いよいよ諏訪湖も見えなくなる時、長七は生まれ故郷に向い、手を合わせて別れの挨拶をし、伯母の慈愛に感謝し、兄弟又継母の無事をも祈った。
峠を下り丸子辺りの佐久平を過ぎて大屋に出て、ここから信越線の列車に乗って長野に着いたのはもう日の暮れる頃だった。この日から長野師範学校の寄宿舎での生活が始まった。
~ 略 ~
<注>
伊藤長七は 中央線が諏訪・岡谷まで開通する明治38年11月までの間 和田峠を幾度も越えた 小諸に赴任した明治33年(1900)も 生後6ヶ月の長男(功)と妻(ふゆ)を東京へ引き取る明治37年(1904)も 和田峠を越えた
中山道 和田峠(古峠)
撮影:2010-05-13
長七先生は 明治27年(1894)に長野師範入学のとき 上記國男氏記述のとおり 当時の長野県諏訪郡四賀村を早朝発ち 上諏訪 下諏訪 和田峠 和田 長久保 丸子を経て大屋に着き 大屋駅から信越線の汽車に乗って長野に着いたという 四賀村から大屋までは50キロ近い距離になるのではとも思われ 春の彼岸を過ぎて間もない頃は まだ日もそれほど長くはなかった筈で 日が暮れる頃には長野に着いたということは 長七先生は驚異的な健脚であったと思われる
按針亭管理人は この距離感・身体負荷の一部を体験するため 2010年5月13日に下諏訪駅前から(古)和田峠を越え 和田宿経由で長久保宿までの約30キロを歩いた しかし 日頃の運動不足と70才を超えた年令もあって 休憩と見学時間を入れて12時間を要し しかも最後の2キロは少し歩いては休むといった状態であった その折に撮った写真を 往時の人々を偲びつつ掲載する
なお (古)和田峠にある文化庁・長野県・和田村(現長和町)による右上の「歴史の道 中仙道 古峠」の案内板では 次のように説明されており 長七先生は この「古峠」を越えない別ルートで諏訪から大屋に向かったのかも知れない
「中山道設定以来、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や一般旅人の通行、物資を運搬する牛馬の往き来などで賑わいをみせた峠である。頂上に、遠く御嶽山の遙拝所がある。冬期は寒気も強い上に、降雪量も多く、冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう。明治9年(1876)に、東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通したため、この峠は殆んど通る人はなくなり、古峠の名を残すのみである。」
滝沢忠義著『峠への挽歌 信州の峠をたずねて』(平成11年4月24日発行)は 和田峠の明治以降の変遷を解説しており その概要は次のとおり
明治10年に 江戸時代から長く使われてきた(古)和田峠経由の道より 100メートル低い新しい道に変わり この道が原形となって明治27年には 荷馬車が通れるようになった さらに 昭和8年に大きな工事の末 トンネル(180メートル)が完成し 現在も旧国道のトンネルとして使われているが 昭和53年に国道142号に新和田トンネル(1.9キロ)が完成し 小県地方と諏訪盆地は短絡した
諏訪から 和田峠(古峠)へ
撮影:2010-05-13
和田峠(古峠)から 和田宿・長久保宿へ
撮影:2010-05-13