新設:2004-12-01
更新:2022-10-30
略歴1 (一般向け)
明治10年(1877)
4月13日 長野県諏訪郡四賀村(現 諏訪市)に誕生
明治31年(1898)
長野師範卒 諏訪高等小学校訓導 のち 小諸高等小学校訓導
明治34年(1901)
「小諸を去る辞」を発表
明治38年(1905)
東京高等師範卒 明治39年(1906)同校付属中助教諭 のち 教諭
明治45年(1912)
「現代教育観」を東京朝日新聞に48回にわたり連載 同年秋 単行本として出版され教育界に注目される
大正8年(1919)
東京府立第五中学校初代校長に就任
大正10年(1921)
欧米視察 ハーディング米大統領に単独面会 全国の少年少女から1万数千通の手紙を持参し国際交流促進
昭和5年(1930)
4月19日 平塚市杏雲堂病院にて逝去(享年54)
<注>
「第2回伊藤長七研究フォーラム」開催案内チラシより引用 若干調整した
略歴2 (吟詠界向け)
- 伊藤 長七(いとう ちょうしち) 1877年 4月13日~1930年 4月19日
- 近代吟詠の祖といわれる公益社団法人日本詩吟学院の祖宗範木村岳風先生ゆかりの人
- 祖宗範木村岳風先生と同郷・信州諏訪に生まれ 年令差22才の偉大な先輩 旧東京府立五中(旧東京都立小石川高校・現東京都立小石川中等教育学校)の初代校長を務めた自由主義教育の巨人で 木村岳風先生が詩吟一筋に生きる契機をつくった人
- 信州小諸で島崎藤村との出会いがあり 「破戒」の脇役・土屋銀之助の モデルともいわれる
- 島木赤彦は少年時代からの親しい友人 長野師範も同じ年に入学した
- 松木利次(後の木村岳風)は 諏訪中学を中退後 数々の事業を試みては失敗を重ねた末 27才の時 助言を求めて五中校長であった郷土の先輩の伊藤長七を訪ねた
長七先生は「松木君には詩吟の天分があるので 詩吟普及を通して青少年育成に努め 一派をなせ」との趣旨の助言をした
この言葉が契機となり 松木利次は木村岳風と名乗り 「詩吟」を普及させるために厳しい全国行脚を続けて 多くの詩吟愛好者や吟詠家を育てた
- 木村岳風は伊藤長七を恩人と仰ぎ 厳しい全国行脚の中にあっても 入院加療中の長七先生宛に全国行脚の報告を兼ねた見舞状を幾度も送った
- 伊藤長七が亡くなった約1年後 2人の故郷の上諏訪で信陽新聞社が主催した『琵琶と詩吟の夕べ』において 木村岳風が自ら作った琵琶歌「嗚呼伊藤長七先生」を弾じ吟じた