区分 | 西暦 | 和暦 | 年令数え | 事 項 |
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誕生 | 1877 | 明治10 | 1才 | 4月13日 父・伊藤孫右衛門 母りかの三男として 長野県諏訪郡四賀村普門寺5857番地(現諏訪市)に生れる |
幼年 | 1879 | 明治12 | 3才 | 9月16日 母りか死亡 享年38才 祖母なかに愛育される |
諏訪 小学生時代 | 1882 | 明治15 | 6才 | 4月 長野県諏訪郡59番 学区公立 上桑原学校に入学 10月30日 上桑原学校 小学初等科第6級卒業 |
1883 | 明治16 | 7才 | 5月28日 小学初等科第5級卒業 | |
1884 | 明治17 | 8才 | 5月22日 小学初等科第4級卒業 12月19日 小学初等科第3級卒業 |
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1885 | 明治18 | 9才 | 6月23日 小学初等科第2級卒業 12月21日 小学初等科第1級卒業 |
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1886 | 明治19 | 10才 | 5月10日 小学中等科第6級卒業 12月16日 小学中等科第5級卒業 |
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1887 | 明治20 | 11才 | 4月 高島学校高等科に併設の 諏訪郡立諏訪高等小学校に転学(受験編入) | |
1888 | 明治21 | 12才 | 3月22日 高等小学科第2年級卒業 | |
1889 | 明治22 | 13才 | 3月30日 高等小学科第3年級修業 | |
1890 | 明治23 | 14才 | 3月31日 諏訪高等小学校(高等小学科)卒業 (注)卒業証書には学力優等 人物優等 諏訪高等小学校長千野光亨 とある |
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育英会 授業生時代 | 1890 | 明治23 | 14才 | 4月 育英会に入学(第2回生) |
1891 | 明治24 | 15才 | 3月31日 育英会甲科卒業 4月 四賀小学校授業生となる (注)長野県尋常師範学校の入学資格年齢(18才)まで待つ |
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1892 | 明治25 | 16才 | 高島学校授業生となる(明治27年3月まで) | |
長野師範学校時代 | 1894 | 明治27 | 18才 | 長野県尋常師範学校入学 (注)諏訪郡長の薦挙生として入学試験に合格 (注)1897(明治30)年10月 校名から尋常を削除 |
1896 | 明治29 | 20才 | 3年生在学中の伊藤長七が「牧者に追わるる羊が俄然猛虎となる」と矢島音次が後に追想 | |
1898 | 明治31 | 22才 | 3月26日 長野県師範学校卒業 3月26日 長野県管内小学校本科正教員免許状を受ける |
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諏訪郡教師時代 | 1898 | 明治31 | 22才 | 4月 諏訪高等小学校訓導となる 4年女子組担当 (注)この頃 長野県教育大会 諏訪全郡連合運動会(湖水一周) 湖上遊泳 月夜の行軍 諏訪湖スケートなどを行う |
1899 | 明治32 | 23才 | 4月 下諏訪小学校に転任 9月 平野村高等小学校に転任 |
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1900 | 明治33 | 24才 | 3月 「公売処分」(注)正式な名称ではない 諏訪郡長薦挙生で長野師範に入学卒業した長七は卒業後郡内学校勤務義務年限があり その年限内に他郡に転出せざるを得ず 他郡でも受入がなければ解任の内密取扱だったが公になった | |
小諸時代 | 1900 | 明治33 | 24才 | 4月 小諸高等小学校に転任(小諸高等小学校首席伴野文太郎に拾われた) (注)小諸時代 島崎藤村と知合い交友関係を結ぶ 藤村の『破戒』執筆動機にかかわる 土屋銀之助のモデル説がある 北村季晴は 小諸で旧友藤村と再会 小諸小学校の伊藤長七と出会う 1900年「信濃の国」を作曲 のち 五中校歌を作曲 |
東京高等師範学校時代 | 1901 | 明治34 | 25才 | 4月 高等師範学校予科に入学 (注) 校長は嘉納治五郎(1920年まで) 4月26日 「小諸を去る辞」を著し 『学友』に投稿 (注)『学友』は長野県師範学校学友会の機関誌 |
1902 | 明治35 | 26才 | 3月 (注)広島高等師範学校設立に伴い 校名が東京高等師範学校となる 3月 塩原ふゆ 長野師範卒 高島小学校訓導となる |
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1903 | 明治36 | 27才 | 規定改正により 国語漢文 英語 地理歴史 数物化学 博物の五部制となる 長七は英語部に所属 校舎が大塚窪町の新学舎に移転 10月21日 塩原ふゆと結婚 ふゆは高島小学校教師を継続 諏訪中学校学友会の依頼で 校歌「東に高き八ヶ岳」作詞 |
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1905 | 明治38 | 29才 | 3月31日 東京高等師範学校本科英語部卒業 3月31日 文部省に於いて修身科 教育科 英語科教員免許状を受ける (注)東京高等師範学校の学生の頃から 長七は同校の雑誌『教育研究』等に教育論などを寄稿し 健筆を振るった 『教育研究』は明治37年(1904)4月に創刊された東京高等師範学校附属小学校内の初等教育研究会が編集する雑誌 4月 東京高等師範学校研究科入学 4月1日 東京私立精華学校教員を嘱託される 9月1日 東京私立精華学校教員を辞し 東京宏文学院講師を嘱託される 9月1日 私立東洋英和女学校講師を嘱託される(1918(大正7)年12月20日まで) |
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1906 | 明治39 | 30才 | 3月31日 東京宏文学院講師を辞す | |
東京高等師範中学小学校教師時代 | 1906 | 明治39 | 30才 | 4月1日 東京高等師範学校 附属中学校助教諭に就任 5級俸給与 (注)高等師範の附属中学校が本務 附属小学校を兼務して英語を教える |
1908 | 明治41 | 32才 | 5月 『英語及其教授法』(同文館)を刊行 | |
1911 | 明治44 | 35才 | 11月21日 東京高等師範学校教諭に昇進 叙高等官7等 6級俸 柔剣道部長となる 6月7日 夏目漱石を訪ねる 長七に対して長野県における講演を正式に承諾 漱石は6月17日長野に向かい 18日長野県会議事院で「教育と文芸」 21日には高島小学校で「我輩の観た「職業」」を講演 |
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1912 | 明治45 | 36才 | 東京高等師範学校の職員 卒業生 生徒の有志による「附中山岳会」を組織 大正2~3年 山岳会の旅行を実施 「山岳部部歌」を作詞 4月~7月 「現代教育観」を黒風白雨楼の筆名で東京朝日新聞に48回にわたり連載 同年10月 『現代教育観』(同文館)刊行 |
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1917 | 大正 6 | 41才 | 1月 信濃通俗大学会設立 沢柳政太郎 加藤正治とともに理事に就任 評議員に後藤新平 新渡戸稲造 前田多門 鶴見祐輔 今井五介 藤原銀次郎らが支援 8月 信濃木崎夏期大学 長野県北安曇郡平村の木崎湖畔にある信濃会堂で開講 伊藤長七は「創造的教育の研究」と題して講演 |
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1918 | 大正 7 | 42才 | 軽井沢夏期大学開講 文化講座と英語講座 12月20日 私立東洋英和女学校講師を辞す |
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東京府立五中校長時代 | 1919 | 大正 8 | 43才 | 1月15日 公立中学校長兼公立中学校教諭に任ぜられる 1月15日 東京府立第五中学校長兼東京府立第五中学校教諭に補される(仮事務所は竹早町の東京女子高等師範内) 3月26~28日 東京女子高等師範学校内で入学試験 4月9日 始業式 小石川籠町校舎で開校 校章に武蔵野ゆかりの「紫草」を図案化し制定 校歌作詞(作曲は北村季晴) 三校是「立志 開拓 創作」 開校1年目に「開拓」 2年目に「創作」 3年目に「立志」が加わり定着へ 背広にネクタイの標準服(定着は2年後) 4月24日 「紫友会」発会式を鎌倉鶴岡八幡宮にて行う(4月20日との記録もある) 後に紫友会を財団法人化 5月5日 校庭で鯉上げ(端午の会) 7月22日~8月7日 第1回夏期転地修養隊(長野県北佐久郡志賀村他) 11月3日 創立記念式 運動会 学芸会 |
1920 | 大正 9 | 44才 | 1月 雑誌『開拓』創刊 (紫友会発行) 巻頭之辞 紫友会会長伊藤長七「開拓之精神に就て」 7月6日 長男・功 小石川区音羽町で逝去(享年17才) |
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1921 | 大正10 | 45才 | 1月 紫友会測候所が五中校庭に設置 この頃に 三校是「立志 開拓 創作」が定着 6月 「紫友会」が財団法人となり 7月 運動場(1338坪)寄附 9月 全国中学校長会議(開催地:奉天)出席 10月28~31日 第1回創作展覧会 学外著名人3000人余参観 11月11日 欧米各国視察旅行 横浜出発 全国の少年少女からの手紙1万数千通を携える |
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1922 | 大正11 | 46才 | 2月12日 ハーディング米国大統領に単独会見 12月16日 神戸帰着 |
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1924 | 大正13 | 48才 | 3月9日 第1回卒業証書授与式(134名) | |
1926 | 大正15 | 50才 | 後藤新平の提唱する「政治の倫理化」運動に参加 4月20日 青山会館で後藤は第一声 伊藤長七 沢柳政太郎 永田秀次郎 鶴見祐輔らが全国遊説に同行 『新らしい講話の仕方と実例』(明治図書)刊行 (注)書名には「ら」が入っている 12月 台湾・南支那公務視察 |
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1927 | 昭和 2 | 51才 | 7月9日 カナダ トロント市で開催の国際教育会議に出発 帰路ブラジル視察 12月24日 帰国 |
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1928 | 昭和 3 | 52才 | 7月 『格言警句集』(誠文堂)刊行 | |
1929 | 昭和 4 | 53才 | 元旦朝 宮城前式場で発病 6月3日 妻ふゆ 食中毒で急逝 享年45才 6月末 東京帝国大学付属病院真鍋内科に入院 8月下旬 転地療養のため 神奈川県平塚市杏雲堂病院分館へ転院 12月3日 小冊子『すこやかなる心身へ』作成 |
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1930 | 昭和 5 | 54才 | 4月19日 神奈川県平塚市杏雲堂病院分館で死去 享年54才 | |
没後 | 1930 | 昭和 5 | 没後 0年 |
4月23日 学校葬(近角常観導師) 7月15日 『開拓』17号「伊藤校長追悼号」発行 |
1931 | 昭和 6 | 没後 1年 |
2月 伊藤長七の胸像を校内に建設 碑文草案橘純一 制作本山白雲 (注)本胸像は戦前講堂側の中庭にあったが戦災で台座破損 1968年創立50周年を記念し紫友同窓会が台座を再建 (2018年現在校内玄関ホールに設置) 4月 小諸立志同級会(長七の教え子)が長七の一周忌に 長七が野外授業を行った 往時の囁(ささやき) 小諸市東雲3760の立志山大雄寺境内に 東郷平八路揮毫の伊藤寒水碑を建立 4月 伊藤長七を恩師と仰ぐ木村岳風が 長七祥月命日に 琵琶歌「嗚呼伊藤長七先生」を謹作 5月8日 諏訪の都座で信陽新聞社主催「琵琶と詩吟の夕べ」で演奏 |
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1965 | 昭和40 | 没後 35年 | 11月8日 伊藤長七先生の生家跡に近く 諏訪市四賀 上桑原の諏訪湖を望む地に伊藤長七頌徳公園を造営 諏訪出身清水多嘉示が制作した伊藤長七胸像・創作開拓のブロンズ碑を除幕 長七敬慕の諏訪・長善館関係者 小諸立志同級会 東京高師 五中小石川 伊藤家らが参列 |